この間のゼミで、大切なものは3つにするというお話がありました。
私にとっては、パートナー、教採、卒論がその3つになると思っています。
ですが、その3つだけではなく「もっともっと」と欲を出してしまう。
ゼミの仲間が言っていた、「その3つの枠組みを、できるだけ押し広げようとしてしまう」という気持ちにもすごく共感できてしまう自分がいました。
音楽も聴きたいし、部活ももっと参加したいし、お出かけもしたいし、本も読みたい。
けれど、それだと結局普通になってしまう。
普通でも全然良いとも思います。だって今までがそうだったし、別に困ったこともないからです。
でも。
おそらく、普通でいたら「1人も見捨てない教育・社会を実現する」ことはできない。いや、絶対にできないのだろうなとも思うのです。
大学での講義、教育実習、ボランティアなどを通して、現在の教育から見捨てられている子がいるという事実を知ってしまいました。
そして、フリースクールの見学や川崎市子ども夢パークの元社長さんの講演会などからは、現代の公教育とは違う場で、いきいき過ごしている子どもたちのことを知りました。そういった子どもと実際に会ったり、一緒に遊んだりもしました。
普通になるのが嫌なわけではありません。
ただ、普通でいたら、「救えない子どもがいる」という事実を変えることはできません。
この大学で学び、いろんな場所で子どもの姿を見たり聞いたりしてきたからこそ、現状から目を逸らすことなんてできません。
子どもが大好きな人、教員を目指すものとして、それは絶対に嫌です。
1人でも多くの子どもを救いたい。みんなには幸せになってほしい。そう思います。
でも、今までと同じ過ごし方をしていたら、きっとそれは理想で終わってしまう。
「大切なものを決めきれずにいろんなものに手を出してしまう理由があるとすれば。それは、いろんなものとは比べ物にならない、圧倒的な目標がないから。」と師は言っていました。
胸にグサグサ刺さってくる。
いろんなものに手を出してしまって大切なものを決めきれていないという現状があるからこそ、めちゃくちゃ胸の真ん中に刺さる。
このままじゃいけないな、と。
私にとって本当に大切なのは、多くの子どもを幸せにすること。そして、最終的には「1人も見捨てない教育・社会を実現する」こと。
そのために今できること・すべきことは、きっと現状とは異なっています。
そう、薄々感じていたのに、何も行動できていなかった自分。
今ある人間関係を切ってしまうことになるのではないか。嫌われてしまうのではないか。そう思い、何度も悩み、結局現状維持を選んできた自分。
普通が嫌なわけではないけれど、普通でいたら救えない子どもがいるのは事実で。だからこそ今の教育では救いきれない子がいて。
1人でも多くの子どもを救うなら(最終的には全員を救いたい)、やっぱり普通のことをしていても駄目なのだと目が覚めました。
今までは、それなりのことをしている自分でも良かった。
けれど、何かを得るには、何かを失う覚悟も必要なのだと。そして、得たいもの(1人も見捨てない教育・社会を実現する)も明確になりつつあって。
人と違うことしてる自分かっこいいでしょ✨と自惚れているわけではないのです。
得たいものに近づくためには、何かを切る必要があるのです。
切ることにはとてつもなく勇気がいります。けれど、今まで大切にしていたものを切る覚悟がついて初めて、自分が得たいものに近づけます。
「二兎を追うものは一兎も得ず」という言葉があるように、一つの物事に集中せずに欲張ろうとすると、結局どちらも得られないものです。
運が良ければ、どちらも得られるのかもしれません。いま大切にしているものを手放さずに済むかもしれません。できればどちらともを手で掴みたい。
けれど、1番手放したくない「1人も見捨てない教育・社会を実現する」というのを運まかせにすることはできません。確実にその実現には近づきたいし、最終的には実現したいからです。
今の現状は、「1人も見捨てない教育・社会を実現する」ことを運任せにしていると言えるでしょう。
それだと、将来きっと、それを運任せにした自分を悔やみます。1番実現したかったことなのに、どうして他のことに時間を割いてしまったんだ、ときっと後悔します。
そうなるとやはり、やはりターゲットをしぼる必要がある。
そのためには、いま大切にしているものも手放す必要があります。
嫌われるんじゃないか、と心配する節もあります。けれど、きっと私が「繋がっていたい」と思う人との縁は切れない気がします。
だから結局、何かを失っても本当に大切にしたいものは残り続ける気がします。それは、人との縁だったり、思い出だったり。
今、大切なものを3つにしぼる覚悟が試されていると思います。